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everywhere I'll go

懺悔

ぎっくり腰の病み上がりにつき、大掃除は控えていたが、まぁいくらなんでもここはやらないとまずいというところをひとまず片づけた。
そしたらUSBがふたつ出てきたので中を確認してみた。

ひとつは、父の余命が見えた頃、みんなで幼い頃に行ったハワイにもう一度行こうと妹が言い出し、嫌々ながら義務感だけで行ったハワイ旅行で私が撮った少ない画像だった。カメラは被写体ではなく写す側の気持ちが出るものだと友が言っていたが、その通りで、父も母もあまり笑っていなかった。主催者の妹だけが無理やり満面の笑顔だった。2010年。私はあの頃、今の夫と付き合い始めで、父親に猛反対されていた。当たり前だ。けれど私はといえば父の癌のせいで元々居心地の悪かった家族が、一致団結しようと(妹がさせようと)しているのが、心底気持ち悪くて、大迷惑で、せっかくのハワイ旅行をしかめ面で過ごしていた。私はひとつもカメラに写ってなかったが、どんな顔をしているのかは父と母の顔を見ればわかる。空とか海とか花とか、しょうもないどうでもいいものばかり撮って、もっと人を、妹と父と母を撮ればよかった。

もうひとつは。

もうひとつは、「ひとりごと」と「8」というタイトルの文書ファイルと、妹がとてもいい笑顔で映っている4枚のそれぞれ別の日に撮った画像だった。多分、妹の遺品整理をしていた時、何も考えず持ち帰りそのまま忘れていたのだと思う。いや、もしかしたら嫌な予感がして敢えて中を見ていなかったのではないか。「8」というのは、おそらく彼女は私小説を書こうとしていたのではないだろうか、中学生の頃にいじめにあっていたことが書かれていた。「ひとりごと」には父の死後、絶望して何とか腰を上げたという日記と、そのあと癌が肝臓に見つかって、手術をして、再発したという何日かの日記だった。「さみしい」という単語が随所に目に入った。

文章はきちんと全部読めなかった、斜め読みが精一杯だった。罪悪感で、申し訳なくて、ひとつめのUSBの画像も、ふたつめのUSBの文章も、目を背けるのに充分な理由が、思い当たる節が私にはありすぎたからだ。

彼女と私はとても仲が良かったが、私が今の夫とうつつを抜かしていた頃くらいから疎遠になって、前述の義務旅行を経て、父の死後は、より一層、疎遠どころか絶縁状態だった。仲が良かった頃、私から見る彼女はいつも前向きで、自由に、伸び伸びと、好きなことを思いっきりやって、明るく無邪気な女性だった。けれど、ここに書かれた文章は、陰鬱で、絶望的で、ネガティブの塊だった。おそらく、一緒に保存されていた4枚の画像は、もしかしたら遺影にする画像を自分でピックアップしたものではなかろうか。

逃げるようにファイルを閉じると、デスクトップの藤井風が目に入った。いくつもの彼の歌が頭の中に溢れ流れてきた。つけっぱなしのテレビには好きなゲーム配信者が楽しそうにゲームをしていた。泣けて仕方がなかった。

妹が知らない音楽を聴いて、妹が想像もしないゲーム配信なんかを見て、笑ったり楽しんだりしている私を、彼女はどう思うのだろう。なんて言ってくれたんだろう。

私は、なんてくだらない最低な人間なんだろう、心底。

泣いてもわめいてもどうしようもないときは小鳥遊さんの言葉を反芻する。そうでもしないとまともではいられない。自分への憎悪を少しでも薄める。どうか、そうであってほしいと祈る。
何度も、自分を慰めるように。
あまりに都合が良すぎるのは重々承知で。
許しを請う。

― 人間にはやり残したことなんてないと思います。
過去とか現在とか未来とかってどこかの誰かが決めたものだと思うんです。
時間は過ぎていくものじゃなくて、場所っていうか、別のところにあるものだと思うんです。
現在だけを生きてるわけでもなくて、その時その時を懸命に生きてて、それは別に過ぎ去ったものじゃなくて。
5歳のあなたと5歳の彼女は今も手を繋いでいて、今からだって、いつだって気持ちを伝えることができる。
人生って小説や映画じゃない。幸せな結末も悲しい結末もやり残したこともない。
あるのはその人がどういう人だったかということだけです。
だから、人生にはふたつルールがある。
亡くなった人を、不幸だと思ってはならない。
生きている人は、幸せを目指さなければならない。
人は時々寂しくなるけど、人生を楽しめる。
楽しんでいいに決まってる。― 「大豆田とわ子と元三人の夫」第7話より