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everywhere I'll go

さいたまスーパーアリーナ「LOVE ALL ARENA TOUR」2023.1.14

「ロンリーラプソディ」は生歌で聴くべし。いい。やっぱりいい。
歌いい、ピアノいい。羨ましい。強い、歌えてピアノは強い。
アコギ1本もすごい。だけどピアノはオーケストラ並みの圧倒を感じられる。
少なくとも藤井風のピアノは。無敵だわ。

以上。ライブ、行って損なし。いい。感想はそれだけで充分。

充分だからこれで終わりでもいいのだが、カゼタリアンさんたちからしたら「雑音」らしい、私にしたら「エッセンス」でしかない、件の騒動のせいで、終われない。

深海ツアーを思い出した。あのライブは私の中ではミスチルの中で1番のライブだ。歌と桜井和寿が一体化して、ライブが進めば進むほど、歌えば唄うほど、皮膚が、鱗が、ポロポロと剝がれ落ちていって、自分が作った歌に自分の命が吸い取られていくのを目の当たりにしているようだった。見ていて苦しいのに、感動していた。正に海の底に引きずり込まれて息も絶え絶えのはずなのに、ここに留まっていたいとさえ思うほど、居心地が良かった。

今日の藤井風を見ていても心が苦しかった。
「週刊誌にいろいろ言われてかわいそう、風くんえらい」ではないぞ。うらやましいぞ、おい。そんなんで泣けるの。オラもそんなんで泣きたいぞ。
同情など軽々しくできないほどの、想像できないほどの、ものすごい荷物を生まれながらに背負わされてしまった人間を見ているようだった。痛々しいのは本人が背負っていることを全く自覚していなことだった。それを背負わせたのは両親であると思うと、子供がいなくて本当に良かったと思う。

「ママとパパは君をダメにする。
 悪気はないがダメにする。
 自分たちの欠点を君に受け継がせ、新たなおまけさえつけて」

どんな人間も両親のDNAに否が応でも背負わされて、さらに、彼らの精神を無自覚のうちに植え付けられている。ほとんどの人が成長の過程でそれらの違和感を覚えて反発し、嫌悪し、ひどくなると呪いさえするが、それでも両親の年齢になると、まぁ仕方ないかと諦めて、反面教師がそばにいてよかったとして、苦笑いしてやり過ごして生きていく。極端な虐待や洗脳を受けさえしなければ。

自由に、伸びやかに、愛と慈悲に満ち溢れた笑顔で、その目に映るのは透き通る世界かのように、あるいは、情熱的に、魂の赴くままに、力強く歌いあげる。
一見、そう見える。けれど「自由だ」と唄うほどがんじがらめになって、「手放そう」と唄えば唄うほど放たれるどころかしがみつき、「光」と唄うその目の奥には暗闇が映り、「燃えよ」と唄ったそばから急激に冷めるような、プラマイゼロの無間ループの中を、自ら選んだ言葉によって自らの身を切り刻んでいるかのようだった。けれど当の本人は無自覚どころかその言葉に悦びさえ感じているようで、血だらけになればなるほど、歌声は穏やかに優しく会場中に鳴り響いていた。苦しい、苦しいのに美しい。歌と本人が反比例しながら呼応していた。悲しいほどに。

ファーストアルバムを手にした時点でサイババ信者だと知っていたが、ふーん、としか思っていなかったのに、そう思えなくなったのは、ひとえにあのイキリインスタストーリーだ。拡散されて面白おかしくうしろ指さされてるが、あれは、あの目は、洗脳されるために生まれてきた人間の恐ろしさを物語っていて、笑いごとじゃなさを思い知らされた。

でも私は彼の友達でも恋人でもないので、何とかしてあげなくちゃ、とも思わないしそんな義理もない。ましてや、逆境に負けないでとか、味方になってあげるね、なんて上から目線で憐れむ余裕もない。

そのことで、両親が彼になすりつけたそのとんでもない「おまけ」のおかげで、彼の歌に血が通い、生々しく響くなら、いちリスナーとしてはこれほどありがたいことはない。

何故、数多ある歌の中で、藤井風の歌に惹かれたのか、ライブに行くたびその答えがわかるようで、それだけで行く価値が私にはあるのだ。

深海までとはいかずとも、この海は冷たくて暗いのは確かで心地好い。

まつりは終わらない

3時間睡眠。足りないので昼寝さしてくれなのだが、インスタのストーリーを何度も見るたび(悪趣味)、シンプルにちょいかわいそうやなぁと思いつつも、安堵して、ニッコニコしてしまい(サイコパス)、書きたい。

仙人みたいな歌をデビュー間もないというのに歌い散らかして、どうするんだこの先、この調子で何年も何十年も歌書けるのか。出来上がっちゃってるじゃないか。頭打ちがすぐに訪れるんじゃないかと危惧していたのですが。

この男の人、何も出来上がってなどいなかった。
25歳なりの、年相応の田舎の兄ちゃんだった。

あの藤井風ならば「そうですか、わたくしの信仰はそんなに奇天烈に見えるのですね。構いません。中傷するあなたも、後ろ指さすあなたも、銀行強盗犯も、殺人鬼も、アンチもポンチも、全てまとめて抱きしめます。なぜならすべてのことは私を作る恩恵なのですから」と、口にすることさえもなく、ただただそれらを内包した魅惑のアルカイックスマイルを浮かべて「happy new year」と唄うように、何事もなかったかのように、言って見せるのかと思っていたのだから。

蓋を開ければ、仏どころか餓鬼の形相。
いやぁ、ほっとした。
藤井風、まだまだのびしろあり。まだ舞える。まだまだ歌える。

未熟さゆえに、もがき苦しみそこから生まれた歌こそ私にとっての名曲なのだから。
これから生まれる名曲が楽しみになりました。

そのうち移住して、活動拠点を海外にフォーカスし、英語の歌ばっかりになるのだろうから、それまで、1曲でも多く、日本語の歌を唄い続けて欲しい。

がんばるのだ藤井風よ。

私のお死活、、、おい、なんだ、この変換、失礼やな、推し活まつりが延命されたのを感じたワックワクの年の瀬でした。

よいお年を。

無宗教者が宗教をテキトーに語る

「わしの信仰心をどうにかできるとでも思っとん?wざんねん、なんもできんよ」
「他人の粗探しするより自分の心配したほうがええで、お互いな」
「とにかくすべてお片付けや、今年はおわりおわり」
とまぁ、怒り通り越し過ぎた人が冷静を保とうとして笑顔になっちゃってるという、そう、あの懐かしの「笑いながら怒る人」竹中直人の古の芸を素でやっている、一番触れてはいけない精神状態の表情で、藤井風がストーリーをあげた。どしたん?とツイ見てみたら藤井風のTwitterが空っぽになっていた。

ちょろっと、ざざーっと、ツイ漁ったが、まぁだいたい2種類。
「風くん!よく言ってくれた!私は風くんを信じてる!今年の最後に素敵な笑顔ありがとう!私もお掃除がんばる!」
「風氏サイドがそれを公にせずサイババの言葉をスローガンとして掲げ、その思想を音楽に込めるのは、無知なファンを無意識にその宗教に誘導することになり、非情に危険ではないか、キリッ」

もっともっと時系列調べたり検索したりなんだらすれば、どうしてこんなことになってんのかわかるんだろうが、面倒くさいのでやらない。まぁ大体想像するに、この前のNHKでインドウルルン見る→初見さんたちがサイババを知る→アンチ茶化す→藤井さんおこでツイ全消し→タリアンちゃん悲鳴→藤井さんギリアウトなストーリーあげる→タリアンちゃんアンチ撃退に歓喜→にわか宗教評論家たちお気持ち表明、といった感じなんではなかろうか。知らんけど。

知らんけどもよ。

突っ込みどころさんが多すぎで、書かずにはおられん。
カラオケで藤井風歌いまくって、いい気分で帰ってきて、お風呂入って、ぬっくぬくでインスタ覗いたら、こんなんで、もう体ひえっひえよ。

まず、お気楽極楽のタリアンちゃんたちは通常営業で、もうなんだったら一番正しいリアクション芸で、羨ましいまである。

次、にわか宗教評論家たち。きみたち、もしやこの前まで、LGBTQなんたらかんたらで騒いでなかったかい?その前はフェミニストって名乗ってなかったかい?その時々でクルクルと呼び名が変わる人たちですよね。声デカイんだよなぁこういう人たちは。こういうのが最先端のファッションだっつって猫も杓子も闊歩し始めてから、エンタメ、つまらんくなってきたんよ。罪深いよ。

次、藤井風スタッフーぅ!わかってたよね?アルバムタイトルをあれにしていいと本人に許可を出したときに、いやもう岡山から引っ張り出してきた時から、こうなることは想定内だったよね?だったら、本人に説明したんだろうか。絶対こういうことになってこういうことを言われるけど、そうなってもノーリアクションでいけるのかと。それともなに、そうなったら好きなようにプロレスしてもいいぞっつったんか?

私がそれを知ったのはファーストアルバムのタイトルの意味を何気なく検索したら、サイババがヒットしたときで、そん時は「ほえー、まじか。信仰までも明後日の方向からくるか」と。それくらいよ。そして歌を聴けば聴くほど、サイババはさておき、彼の精神「すべてを愛で受け入れ、そして手放す」は、この年齢で素晴らしいと思ったし、それを耳心地のよいメロディに乗せ、美しい歌として成立させるなんて、本当に天才だわと、ただただ感心したものよ。

さておけないのか。さておこうよ。いや、おけないよな、わかる。なぜか。
サイババだから。イエス・キリストだったらスルーされたきっと。

サイババの日本での印象はアレだから。小さい頃、テレビで何度も見た。彼が病人の体に手をごにょごにょすると、手の中には取りだされた内臓があって、そして内臓を再び体に戻すと、あら不思議、元気になりましたっつって、見た覚えあるもん。すっごおーい!って幼気な少女が目をキラキラさせて言うと、無表情の父が「インチキに決まってるだろ、くだらないから消せ」つってね、吐き捨ててたもの。

で、サイババのことを調べました。
なわけない、嘘、ませんよ。
薄っぺらいまま語り続ける。

インドは仏教よね。多分それを軸に様々な宗派が生まれて、その一人だよねきっと。でやっぱそんな状況で信者増やすためには、目立たないと。で、故の、苦肉の策の、あのパフォーマンスになるわけよ。まぁやり過ぎだけれどもね。でも基本は仏教なんでしょ?きっと。だって藤井風の歌って仏教徒でなくても、仏教思想っぽいよねー、くらい思うじゃん。ねぇ。

それもあかんのか?仏教思想強い音楽、だめなんすか。クリスチャンが手塚治虫ブッダを読んで希望を見出したら危険ですか。ムスリム遠藤周作の「沈黙」読んで感動したら異教徒だって袋叩きにするんですか。

あかんかどうなのか、本当のところはわかりません。だって私は無宗教者だから。
日本人の大多数が無宗教者で、だからこそボケるほどの平和な毎日を過ごせているのではなかったのか。ウン十年生きてきて、無宗教大国でよかったと思うことの方が多いのだが。だって、クリスマスにケーキとチキン食べて、1週間後には神社に手を合わせて天ぷら食べて帰るのよ、あたしたち。カオスバンザイよ。

そんな日本で、なぜ、急に、宗教うんぬん出てくるのだ。
いや、出てきてもいい。宗教について話し合ってそれを深く学ぶことはよいことです。私は学ぶつもりはイチミリもないですけどね。もうなんも吸収できませんから。

件のにわか宗教評論家が、こんな怪しい布教方法をとっていると、信仰心の高い海外ではこの音楽は受け入れられないっつってたけど、そんな視野の狭い信仰者はそもそもイエローモンキーの音楽なんて見向きもしないのでは。

彼にとって、仏教を知るわかり易いツールがサイババだっただけで、それを耳に入れ、脳で判断し、心でかみ砕き、口から発し、メロディに乗せ、名曲を作り得たのは、紛れもなく藤井風本人の生まれ持った資質だ。だから、誰が彼の音楽の根源かをどうしても特定したいのであれば、それはもう、産み育てた両親でしかない。興味があるとすれば、両親が何を彼に与えたのか、だ。

「帰ろう」を聴いて、藤井風すごいわってよりサイババすごいわってなる人もワンチャン、いるかもしれません、風くんが妄信してるならあたしもサイババ妄信だぞってなるピュアっこも、いるかもしれません。

で、それの何が危険なのでしょうか。

音楽なんて宗教みたいなものでしょうよ。いや音楽だけじゃない。映画監督にも、作家にも、YouTuberにだって、いやもっと言えば恋をした相手にだって、私たちはそれらの人たちの言葉や作品に触れ、時に感動する。その度に、知らず知らずのうちに、それらの人たちが信じるものを、手放しで等しく信じる。その瞬間だけ、あるいは、その瞬間から、「救われた」と思うことが、罪なのでしょうか。

おい、もう、お日さま出てるって。この大晦日になにをさせんねん。

まとめ。
今回、何が一番、いけなかったか。
ひとえに想定内であったはずの騒動の対応をスタッフが本人とシュミレーションしてなかったこと。

ん。

想定してたのは、あんな煽るようなインスタをきっと本人があげることまでも、か。それを自由にやらせることにより、彼は、他のアーティストとは一線を画す、骨太な物言う音楽家なのだと印象づけたかったのか。今頃しめしめとなっているのだろうか。

だとしたら、それは、それこそ、サイババのパフォーマンスくらいやり過ぎだったと思いますが。村化したくないみたいなことおっしゃってましたが、これじゃあ村化一直線ですが。

「藤井風本人にはお咎めなし?あんたも右に同じタリアンじゃん」っつったそこのあんた。

咎めもなにも、あの竹中直人的ストーリー、あのツイ全消し、これら全てが、一般のそこいらじゅうにいる、ちょっとイキリ始めた25歳の若者のリアクションそのまんまで、むしろホッとしたくらいよ。人間だったんだわ藤井風も、と。

私が彼みたいに才能があってみんなにワーキャー言われるほどの25歳だったら、同じことやってたわ。やるっしょ。やりたかったわ。オラオラしたかったわ。

ん。

僕は君だよ 何も違わないよ

まじか、伏線回収されたわ。おい、この一連の騒動の本当の黒幕、目の前にいたって。
だとしたら、それこそ、大物宗教家並みの策士だわ。

はい、入信します。

懺悔

ぎっくり腰の病み上がりにつき、大掃除は控えていたが、まぁいくらなんでもここはやらないとまずいというところをひとまず片づけた。
そしたらUSBがふたつ出てきたので中を確認してみた。

ひとつは、父の余命が見えた頃、みんなで幼い頃に行ったハワイにもう一度行こうと妹が言い出し、嫌々ながら義務感だけで行ったハワイ旅行で私が撮った少ない画像だった。カメラは被写体ではなく写す側の気持ちが出るものだと友が言っていたが、その通りで、父も母もあまり笑っていなかった。主催者の妹だけが無理やり満面の笑顔だった。2010年。私はあの頃、今の夫と付き合い始めで、父親に猛反対されていた。当たり前だ。けれど私はといえば父の癌のせいで元々居心地の悪かった家族が、一致団結しようと(妹がさせようと)しているのが、心底気持ち悪くて、大迷惑で、せっかくのハワイ旅行をしかめ面で過ごしていた。私はひとつもカメラに写ってなかったが、どんな顔をしているのかは父と母の顔を見ればわかる。空とか海とか花とか、しょうもないどうでもいいものばかり撮って、もっと人を、妹と父と母を撮ればよかった。

もうひとつは。

もうひとつは、「ひとりごと」と「8」というタイトルの文書ファイルと、妹がとてもいい笑顔で映っている4枚のそれぞれ別の日に撮った画像だった。多分、妹の遺品整理をしていた時、何も考えず持ち帰りそのまま忘れていたのだと思う。いや、もしかしたら嫌な予感がして敢えて中を見ていなかったのではないか。「8」というのは、おそらく彼女は私小説を書こうとしていたのではないだろうか、中学生の頃にいじめにあっていたことが書かれていた。「ひとりごと」には父の死後、絶望して何とか腰を上げたという日記と、そのあと癌が肝臓に見つかって、手術をして、再発したという何日かの日記だった。「さみしい」という単語が随所に目に入った。

文章はきちんと全部読めなかった、斜め読みが精一杯だった。罪悪感で、申し訳なくて、ひとつめのUSBの画像も、ふたつめのUSBの文章も、目を背けるのに充分な理由が、思い当たる節が私にはありすぎたからだ。

彼女と私はとても仲が良かったが、私が今の夫とうつつを抜かしていた頃くらいから疎遠になって、前述の義務旅行を経て、父の死後は、より一層、疎遠どころか絶縁状態だった。仲が良かった頃、私から見る彼女はいつも前向きで、自由に、伸び伸びと、好きなことを思いっきりやって、明るく無邪気な女性だった。けれど、ここに書かれた文章は、陰鬱で、絶望的で、ネガティブの塊だった。おそらく、一緒に保存されていた4枚の画像は、もしかしたら遺影にする画像を自分でピックアップしたものではなかろうか。

逃げるようにファイルを閉じると、デスクトップの藤井風が目に入った。いくつもの彼の歌が頭の中に溢れ流れてきた。つけっぱなしのテレビには好きなゲーム配信者が楽しそうにゲームをしていた。泣けて仕方がなかった。

妹が知らない音楽を聴いて、妹が想像もしないゲーム配信なんかを見て、笑ったり楽しんだりしている私を、彼女はどう思うのだろう。なんて言ってくれたんだろう。

私は、なんてくだらない最低な人間なんだろう、心底。

泣いてもわめいてもどうしようもないときは小鳥遊さんの言葉を反芻する。そうでもしないとまともではいられない。自分への憎悪を少しでも薄める。どうか、そうであってほしいと祈る。
何度も、自分を慰めるように。
あまりに都合が良すぎるのは重々承知で。
許しを請う。

― 人間にはやり残したことなんてないと思います。
過去とか現在とか未来とかってどこかの誰かが決めたものだと思うんです。
時間は過ぎていくものじゃなくて、場所っていうか、別のところにあるものだと思うんです。
現在だけを生きてるわけでもなくて、その時その時を懸命に生きてて、それは別に過ぎ去ったものじゃなくて。
5歳のあなたと5歳の彼女は今も手を繋いでいて、今からだって、いつだって気持ちを伝えることができる。
人生って小説や映画じゃない。幸せな結末も悲しい結末もやり残したこともない。
あるのはその人がどういう人だったかということだけです。
だから、人生にはふたつルールがある。
亡くなった人を、不幸だと思ってはならない。
生きている人は、幸せを目指さなければならない。
人は時々寂しくなるけど、人生を楽しめる。
楽しんでいいに決まってる。― 「大豆田とわ子と元三人の夫」第7話より

「NHK MUSIC SPECIAL ~藤井 風 いざ、世界へ~」をみた

もやもや通り越して怒りさえ沸いてきたので書く。
NHKって、テレビって、久しぶりに見たが、どうしてこんなに人をイライラさせるのが上手なのだろう。あっぱれ。

番組前半「死ぬのがいいわ」が世界で大ヒットって話題を伝えるために、外国人リスナーのインタビューが流される。

「いい曲です!」「すばらしいです!」

ね、すごいよね。

「こんな歌他に知りません!」「歌詞がいいです!」

はい。

サブリミナル的に藤井風本人のインタビュー
「日本ではこの歌はあまり聴かれてなくて」のあとにつかさず、YouTube「死ぬのがいいわ」再生回数の8割は外国!ででーん!とテロップ。

あの動画ってソフト化されたライブの切り抜きだよね?持ってるんじゃないの日本のファンは。だからわざわざYouTube再生する必要ないだけじゃないんですか?

気を抜いているとつかさず一生流れる外国人インタビュー。

「ぼくの彼女も日本人です!」「うちの民謡に似てまっせ!」
とうとう外国人がキッチンで歌を口ずさむの画。

い~や、もぉ、本人に歌わせろやハゲタコぉ!(©粗品

ほれ、外国人はこんなにみんなこの歌の良さがわかったのに、君たち日本人見逃したね?馬鹿だねぇ。気づかなかったのかい?と延々マウントを取られていたような気分。

あの歌を聴いたとき、こんな歌も唄うのかと驚いた。若いのにすごいなと。
けれど藤井風の歌あるあるなのだが、曲調も歌詞も何故か聴きなじみがあるような。
昭和歌謡?演歌?私たちが小さい頃聴いてきた大人の歌。そこになんだかシャレオツな洋楽風味が混ざって独特。まぁ素人だからこれくらいしか語彙が出てこないがとにかく、懐かしいのに新しい、だった。
歌詞だって「好きな人と一緒になれないのなら死んだ方がいい」なんて演歌にあったくない?「あなたを海に沈めたい」ってもう死ぬどころか殺すなんて歌もあるくらいなのよ。

私は洋楽を聴かない。でも、きっと、流行ってる歌なんて、あの人があの子に夢中で振り向いてくれないから他の男とイチャイチャしてやるわーとか、君がいなくて僕はどうにかなりそうだよー的な、所謂パーティーピーポー的な歌詞でしょ?(偏見)
そもそもビートルズの歌詞だって日本語訳びっくりするほどスッカスカじゃん。

日本の歌は元々歌詞重視でできてんのよ。
だから「死ぬのがいいわ」がいい歌詞でいい曲なのもあたりまえ体操なのよ。

なんでこんな番組の作り方するんだよ。
藤井風のスペシャル番組を見てイライラさせるなんて相当な手練れ。

つか、前回んときも気になったけど、ナレーションが「風」って呼び捨てなの何よ。アイドルかよ。「風さん」か、呼び捨てなら「藤井」か「藤井風」とかにしろよ。
なんすか、NHKは下の名前で呼ぶくらいズブズブな仲良しなんですよアピっすか?え?言いがかり?でしょうよ。もはや当たり屋よ。プンプンよ。

と、ふと、最近、日本のファンと海外のファンでいざこざがあったことを思い出した。詳しくは全く知らんのだが、なんかそんなことあったそうです。
あぁなるほどね。そこに乗っかってNHKさん煽ってきたのか。
おっと。まんまと、久しぶりにテレビジョンの罠にはまるところでした。

「死ぬのがいいわ」の「あなた」は恋愛相手ではなく、自分の中にいるもう一人の愛しく最強の自分、と藤井風は話していた。
ここ、すごく大事なとこではないか。
こういう風に他の曲のことも、もっと深く掘り下げたほうがよかったのではないか。

受信料使ってインドまで同行して、彼の精神の奥深くまで潜ることもなく、肝心なことにはさらっとしか触れず、それこそYouTubeでいつでも見られる「grace」のPVで尺を稼いで、安っぽいアイドルのウルルン滞在記みたいな作りに終始していた。

まぁ、だからこそ、ちょろっとしか出てこない彼のインタビューの言葉が更に重く響いたのだが。まさかNHKそれを狙ったのか。

彼の歌詞はどこまでも深く広く高く、そして儚い。
だからこそ若くして何故こんな歌詞を書けるのかということを伝えるために、もっと彼のバックグラウンドに焦点を当てた番組にした方がよっぽど見応えがあったのではないか。
それを伝えるためならサイババの名前を出したって全く構わないと思う。
むしろあのサイババの言葉をどう脳内変換させて、こんな思想を奇跡的に得たのかを知ることが、彼の謎めいた人間性を解き明かし、ひいてはその先にある唯一無二の音楽の深淵を少し覗くことができたのではないか。
25歳の彼がそれをどう考え伝えるのかを映像に残し、そして何年か何十年かした中年のくたびれた藤井風が何を思うのかを見てみたかった。

アイドルみたいなキラキラな装飾をつけずとも、大袈裟な冠をつけずとも、単なる音楽好きな兄ちゃんの歌が世界中に広がってゆく画のほうが夢があるじゃないか。
そしてどこにでもいるようなその兄ちゃんに話を聞いてみたら、一筋縄ではいかなくて、また彼の歌を聴きたくなってしまうのだ、誰もがきっと。

彼の歌を辿り、彼の精神を辿り、そうしていると更にもっと彼の歌を辿りたくなるという無間地獄に溺れてゆく。なんという天国だ。

それはさておき、当該番組は肝心な「歌」が一回もフルで流れないという。
続きは紅白で。
壮大な番宣。
草。

宮城スーパーアリーナ「LOVE ALL ARENA TOUR」2022.12.17

回らない寿司と大吟醸の地酒で身も心もお腹いっぱいでシャトルバスに乗る。

バッキバキのコルセットして杖ついて。
体はボロボロ、でも心はポカポカ。がんばれ老体。

ドナドナみたいに連れてこられたのはパナスタを何千倍も上回る辺境地。

本当にここでライブあるんですか?あったとしても誰のですか?
世界の配信サイトで軒並みランクインする人のライブ、本当にやるんですか。

雪も相まって、寒い、暗い、怖い。そして何より痛い。

やっと席について、どうか、ライブ中に腰よ抜けるなと祈りながら待っていると、始まった。

というか、やってきた。
自転車こぎながら呑気な顔で。
これから鳥肌立つくらいの歌を響かせる人とは思えない風貌で。

「優しさ」が吐きそうなくらい良かったけど、席が良すぎたので、公演自体の良し悪しはもう判別不能

それでもライブ会場出た後は真っ暗だったはずの会場周辺が、はるか遠くにある街灯に照らされて眩しくさえ思えた。

この人のライブ終わりは、なぜかいつも少し寂しい。
あまりに刹那的で淡泊なのに、あまりに大きくて優しいからだろうか。

単にライブが終わった、というより、何か大切なものが終わってしまったような感覚で、もう一度は本当にあるのだろうか、もう二度となのではないのか、とさえ過るからだろうか。

今は藤井風以外に興味はない。
藤井風の声しか聴きたくないし、藤井風のことしか見たくないし、藤井風の話しかしたくない。

とりあえず丈夫な腰をサンタさんにお願いしよう。

仙台へ出発の2日前

チケットを取ってから何か月かずっと、楽しみにして、楽しみにして、そしたら出発の5日前、ぎっくり腰をした。

立てなくて3日間、床ずれまで出来て、地獄の底の底で、もう、はい、いいですわかりました行かなきゃいいんですねわかりました、と呪いの言葉を吐き続け、よせばいいのにチケットをダウンロードしたらえげつない席で、こんな時に限ってこういう席かよと、ふて寝をした。

そしたら妹の夢を見た。

「あんたならどうする?B'zのライブさ、前から5列目で、なんとか行けるかもしれなくても現地で再発して救急車で運ばれる羽目になるかもしれないのよ、つか、もうテンションダダ下がりでさ、ね、どうする?」と、妹に訊くと
「んー、まぁ、もうそんなこと一生ないだろうしさぁ、あんた、そりゃあさぁ―」
と目が覚める。
そこで私は号泣する。そうか、一生を終えてしまった妹はもう二度とB'zのコンサートに行くことはないのか、と。そうしたら「grace」がどこからともなく流れてきて、聴きたい、今すぐこの歌が聴きたいと思って号泣していた。

さらに本当に目が覚めた。
号泣はしていなかったが、少し涙ぐんでいた。

老骨に鞭打って、這ってでも行ってやると心に決めたのでした。