fake_BOOTLEG

everywhere I'll go

さいたまスーパーアリーナ「LOVE ALL ARENA TOUR」2023.1.14

「ロンリーラプソディ」は生歌で聴くべし。いい。やっぱりいい。
歌いい、ピアノいい。羨ましい。強い、歌えてピアノは強い。
アコギ1本もすごい。だけどピアノはオーケストラ並みの圧倒を感じられる。
少なくとも藤井風のピアノは。無敵だわ。

以上。ライブ、行って損なし。いい。感想はそれだけで充分。

充分だからこれで終わりでもいいのだが、カゼタリアンさんたちからしたら「雑音」らしい、私にしたら「エッセンス」でしかない、件の騒動のせいで、終われない。

深海ツアーを思い出した。あのライブは私の中ではミスチルの中で1番のライブだ。歌と桜井和寿が一体化して、ライブが進めば進むほど、歌えば唄うほど、皮膚が、鱗が、ポロポロと剝がれ落ちていって、自分が作った歌に自分の命が吸い取られていくのを目の当たりにしているようだった。見ていて苦しいのに、感動していた。正に海の底に引きずり込まれて息も絶え絶えのはずなのに、ここに留まっていたいとさえ思うほど、居心地が良かった。

今日の藤井風を見ていても心が苦しかった。
「週刊誌にいろいろ言われてかわいそう、風くんえらい」ではないぞ。うらやましいぞ、おい。そんなんで泣けるの。オラもそんなんで泣きたいぞ。
同情など軽々しくできないほどの、想像できないほどの、ものすごい荷物を生まれながらに背負わされてしまった人間を見ているようだった。痛々しいのは本人が背負っていることを全く自覚していなことだった。それを背負わせたのは両親であると思うと、子供がいなくて本当に良かったと思う。

「ママとパパは君をダメにする。
 悪気はないがダメにする。
 自分たちの欠点を君に受け継がせ、新たなおまけさえつけて」

どんな人間も両親のDNAに否が応でも背負わされて、さらに、彼らの精神を無自覚のうちに植え付けられている。ほとんどの人が成長の過程でそれらの違和感を覚えて反発し、嫌悪し、ひどくなると呪いさえするが、それでも両親の年齢になると、まぁ仕方ないかと諦めて、反面教師がそばにいてよかったとして、苦笑いしてやり過ごして生きていく。極端な虐待や洗脳を受けさえしなければ。

自由に、伸びやかに、愛と慈悲に満ち溢れた笑顔で、その目に映るのは透き通る世界かのように、あるいは、情熱的に、魂の赴くままに、力強く歌いあげる。
一見、そう見える。けれど「自由だ」と唄うほどがんじがらめになって、「手放そう」と唄えば唄うほど放たれるどころかしがみつき、「光」と唄うその目の奥には暗闇が映り、「燃えよ」と唄ったそばから急激に冷めるような、プラマイゼロの無間ループの中を、自ら選んだ言葉によって自らの身を切り刻んでいるかのようだった。けれど当の本人は無自覚どころかその言葉に悦びさえ感じているようで、血だらけになればなるほど、歌声は穏やかに優しく会場中に鳴り響いていた。苦しい、苦しいのに美しい。歌と本人が反比例しながら呼応していた。悲しいほどに。

ファーストアルバムを手にした時点でサイババ信者だと知っていたが、ふーん、としか思っていなかったのに、そう思えなくなったのは、ひとえにあのイキリインスタストーリーだ。拡散されて面白おかしくうしろ指さされてるが、あれは、あの目は、洗脳されるために生まれてきた人間の恐ろしさを物語っていて、笑いごとじゃなさを思い知らされた。

でも私は彼の友達でも恋人でもないので、何とかしてあげなくちゃ、とも思わないしそんな義理もない。ましてや、逆境に負けないでとか、味方になってあげるね、なんて上から目線で憐れむ余裕もない。

そのことで、両親が彼になすりつけたそのとんでもない「おまけ」のおかげで、彼の歌に血が通い、生々しく響くなら、いちリスナーとしてはこれほどありがたいことはない。

何故、数多ある歌の中で、藤井風の歌に惹かれたのか、ライブに行くたびその答えがわかるようで、それだけで行く価値が私にはあるのだ。

深海までとはいかずとも、この海は冷たくて暗いのは確かで心地好い。