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everywhere I'll go

「チェンジリング」を観た

息子がある日突然、姿を消した。
5ヶ月後、母親の前に帰ってきた息子は、別人だった。

どこかしらサスペンスの臭いがしてどんでん返しなんて期待できそうだ。
母と子の絆も織り交ぜてちょっと泣けたりするかもしれない。
なんてセンセーショナルでエンターテイメント向きなお題目だろう。

けれど、物語は静かに始まり、静かに終わる。
モノクロで始まり、モノクロで終わる。
そこには、「真実の物語」であるがゆえに、この事件に関わった人たちへの礼儀や鎮魂の意を、精一杯表した監督の誠実な姿勢が伺える。

もちろん、一体子供はどうなったのだろうという謎を抱えながら、思いも寄らぬ事件へと結びつき、物語はドラマチックに展開する。
実話を題材にした映画は観る側を「楽しませる」というところに欠けがちになるが、この映画は最後まで飽きさせず、目が離せない作りになっている。

けれどこの映画を観ていると、何より、こんなことが、遥か昔とはいえ、実際に起こっていたのかと、胸糞が悪くなる。
これだけ横暴で、これだけ残酷なことがまかり通っていたのかと。

クリントイーストウッド監督は、強い立場の人間と弱い立場の人間を、エキセントリックになることなく対比させ描くことがとにかくうまい。
権力や暴力を振りかざす人間のおぞましさ、愚かしさ。
それに従わざるを得ない人間の、謙虚さ、賢明さ。

理不尽な強者と同じ数の、それ以上の、理不尽に虐げられた人間がいたということ。
しかし無謀だとしても、立ち上がろうとする勇気や尊厳を信じ続ければ、弱者が弱者であり続けなければならない日は、いつか終わりを告げるということ。
多くの弱い力は、見せかけの強い力などものともしない偉大な力となり、そして、報いの明日が必ずやってくるということ。
これまでもずっとそうやって、犠牲が払われ、今があるということ。

マイノリティとされた人間たちの叫びを代弁しながら、この作品には押し付けがましさが微塵もない。
それどころか、抑えた色味の映像とは対照的な、役者たちのセリフや演技の力強さは、観る側の心に僅かに残る、公平でありたい、平等でありたい、自由でありたい、皆がそうあれたら、という願いや祈りに訴えかけるようだった。

そして、これまで他の作品でも、イーストウッドはそういったマイノリティな人間たちの慎ましやかな生活が、マジョリティとされる人間たちによって如何にあっけなく崩壊させられてしまったかを、静かな怒りにも似た目線で描いていたのではないかと、この作品を観終わり改めて感じた。

遥か昔、とは言ったが、幾分マシになった現代でも、やはり権力の名を振りかざす者たちはいつの時代も存在し、その力の下に、人はいつも身を縮こませ、諦めムードだ。

だからこの作品のラストで、アンジー演じるコリンズ婦人が、たくましく美しい笑顔できっぱりと発する、たった一つの単語に、明日を見出し、涙しそうになるんだろう。