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everywhere I'll go

ゲバを語る

 「何を弱気になってんだか銭ゲバのくせに。地獄に行くことぐらいわかってるズラ、最初から。上等じゃねぇか。地獄行きと引き換えに俺が証明してやるズラ。結局、金なんだってな。人間は金で動くんだってな」

風太郎は、底へ堕ちるたびに、銭ゲバを巨大化させ、這い上がる。
回を重ねるごとに風太郎が銭ゲバとして成長し、それと共に、風太郎の本意がどんどん見えにくくなる。そうなればなるほど、彼への魅力は何故か増してゆく。

新たに明かされるエピソードがある。
彼が単に、貧乏だからこうなったのではないと知る。

幼い頃殺人を犯し、行く当てもなく彷徨う風太郎を匿ってくれたホームレス。
少年は、ホームレスを信じ、殺人の罪を打ち明ける。
ホームレスはその情報を警察に1000円で売ろうとした。

彼が人の温かさに触れ、ふと、穏やかさを取り戻すたび、そんなものは幻想や錯覚に過ぎないと知らされる。
いつも金によって。

そうやって金が教えてくれたものを全て飲み込み、育て、ここまできた。
それを、他人にも教え広めるように、次々と周囲の人間の、愛、善、情け、誠意、誇り、それらを虱潰しに、札束で握りつぶしていった。
誰が傷つこうが、泣こうが、死のうが、構わぬその姿は、まるで親切で警告しているのだとさえ思える。
世の中金だから、みんな騙されるなと。ほら、言ったじゃないかと。

風太郎を愛する痣のある女がいた。
彼女は騙されていたと知っても尚、風太郎を愛していると言った。

 「私のこと嫌いですか?居るのも嫌?居なくなればいい?死ねばいいと思ってる?」

彼は答える。

 「はぁ。―どうでもいい。お前のことなんて最初から興味も無い。お前が死んでいようが生きていようが、どうでもいい」

それでも彼女は愛の言葉を囁き続けた。
その言葉はドラマによく出てくるような感動的なもので、全ての悪さえ愛に変わるようなセリフだった。
しかしこのドラマの中では、それさえ、滑稽に響いた。

風太郎を温かく迎えてくれた定食屋の家族たちがいた。
彼らは「貧しくても大切なのはお金じゃない」を絵に描いたような人間だった。
いわば、母親と幼き自分の残像だった。
その彼らにさえ銭ゲバは容赦ない言葉を浴びせた。

 「くだらねぇ負け惜しみ言ってんじゃねえよ。お前らみたいなクソ貧乏人の顔なんか見たくねぇんだよ。帰って虫けらみたいな人生せいぜい楽しめよ」

この次のシーンが印象的だった。
彼らが帰り、彼らが持ってきた菓子折りを、投げ捨てたはずのそれを、丁寧に拾いテーブルの上に乗せ、座り込み、独り、空(くう)を見上げるシーン。

風太郎のいるその部屋に、虚無感や寂寥感が充満する。
数えるほどしかない良かった頃の思い出を、彷彿とさせるあの家族たちを蹴散らし、ひたすら銭ゲバの道を進むことへの虚しさを、彼自身わかっていながら、増幅させているように思えた。
なんとも言えないその複雑な感情を松山は見事に横顔だけで演じていた。

松山ケンイチだけではなく、あのドラマは、余計な役者が一人もいない。
わけわかんない外人が決めたアカデミーなんかより、名役者揃いだ。

目を覆うばかりの彼の悪行はエスカレートしている。
それを見届ける視聴者は憎悪しか抱かないはずだが、そうさせない。
さりとて同情を誘うだけではない。
そういうところが、これまでのもっともらしいテーマを掲げて進行してゆくドラマと一線を画している。

家族を破滅させられた緑が「ちゃんと憎むため」に風太郎の故郷を訪ねる。
彼への同情はイコール、世の中金だと認めることになるからだ。

私も風太郎を知りたい。
みどりのそれとはまるで違うが、
彼への同情はイコール、彼を否定することになるからだ。
けれど、疾うの昔に死んだその目からは何も読み取れない。

何も生産しない、何も訴えない、見ている側をただただ打ちのめし、虚しくさせる。
このドラマの本意も、風太郎の本意と同様、濁って見えない。
現実とひとつも違わないこの作り話から、1秒も目が離せない。