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everywhere I'll go

3つの花

昨日のMUSIC LOVERS、ひじょーに楽しそうで、桜井さん、早くライブやりてーやりてーオーラを電波に乗っけてましたけど、観てるこっちゃあ、その300倍行きたくなったわけで、先行発売抽選候補に、長野くんだりを滑り止めにいれてみました。次は未踏の地、宮城も、と目論見中。

「花」は嬉しい選曲だった。

でもやはり、オリジナルのあの頃の、あの歌を作ったあの頃の桜井和寿が唄っている「花」ではなかった。
「memento-mori」の言葉が連想されるのは、あの頃の「花」だけだ。
昨日唄っていた「花」がいまひとつというわけではない。
ただ、あの歌を初めて聴いた衝撃や、痛みは、そこにはなく、まったく別の「花」だった。
優しく、柔らかい、「花」だった。

私も、あの頃の私ではなく、今味わっている絶望は、別物だ。
今のあの、桜井和寿で、無理にあの頃のように唄ってもらったところで、説得力はない。
薄っぺらい歌に聴こえただろうきっと。

だから改めて知る。
桜井和寿という人は、望むと望まざると、身を削り、人生を削り、本人も知らぬところでそうやって、歌を作り、声を張り上げて、これまでずっと音楽を発信し続けてきたんだと思う。
そういう生きた歌だからこそ、聴いた時間で、唄われた時間で、全く別の色を感じてしまう。
そして、いつ聴こうとも、唄われようと、心を動かす歌というところだけは変わらないままだ。

母が美容院に行って、しこたま週刊誌を読んできたそうだ。
その中に、桜井さんのお父さんが亡くなったという不幸の中で「花の匂い」を作った、だとか、お父さんの好きだった紅白にやっと出れて嬉しいだとか、そういう、記事が載っていたそうだ。

正直、紅白のくだりは、「自分で辞退してたんじゃん」という感じだし、そういうのもひっくるめて、私には、どうでもいい話だ。
どうでもというのは失礼だけど、いや、だからそうじゃなくて、彼の周りで何が起ころうと、好いこと、悪いこと、悲しいこと、嬉しいこと、すべてが自動的に歌となっているのだから、わざわざそんなことを言うなということ。

そんなとってつけたような美談なんかなくても、彼の作る歌は、名曲にしかならない。