朝食を作る妻に夫が恐縮しているのは、彼女が身重だからだな。
義父に叱咤されて、なるほどマスオさんってわけだな、この夫。
やけに気の利く隣人たちばかりなのは、人情溢れる下町なんだなここは。
自分の想像しえる設定で作った箱に登場人物を収めて、
いつものようにフカフカの椅子に身を沈め、キャラメルマキアート飲みながら、
優雅に映画を見始めたら、それはもうのっけからやられている証拠。
Aさんが指している人物はBさんのことで、Cさんが指している人物もBさんのことでしょ。
と、物分かりのいいふりしてたら、泡を食わされる。
そうだった。
Aさんも、Bさんも、Cさんも、いや、XもYもZのことも、何のことも、誰のことも、説明はなかったんだ。
中盤、自慢の想像力が、グズグズグズっと崩れ始める。
私が作ったよくある設定の箱を簡単にぶっ壊し、
まるで別の顔した登場人物たちが現れる。
その瞬間の悔しいくらいの気持ちよさったらない。
ラスト、防犯カメラのシーンを見せられ、してやられた感は増す。
くっそぉ、と。
監督が観客に舌を出し、あかんべーしているのが目に浮かぶ。
思うに、内田けんじという人、
相当、底意地が悪くて、天邪鬼で、友達も少ないんじゃないだろうか。
と、これまた勝手な想像なんだけど。
だから、佐々木蔵之助演じる探偵は監督自身を投影させているかのように見える。
個人的に、登場人物の中で一番、親近感が沸いた。
この佐々木蔵之助しかり、境雅人しかり
昨今のイケメンおこちゃま俳優たちを鼻先であしらうように易々と、
どうだこれがホンモノだと見せつけるような演技っぷり。
食われる。こんな2人に囲まれたら、主演役者はひゃくぱー食われる。
だからここで、“ご存知大泉洋”の登場。
彼の演技はドラマで見てて思うように、悪く言えば浮いている。
良く言えば異彩を放っている。
何をしていても大泉洋というキャラクターに役柄を上書きして消去しきれない。
けれどそもそも、長年のファンだろうが地元ファンだろうが、
大泉洋と言う人間を誰もきっとつかみ切ることはできていない。
だから、彼のキャラを消す必要がない。
どれも大泉洋っぽいけれど、実は全部、大泉洋っぽくないのではないだろうかと、
どこかでみんな手探りしながら彼の魅力に引き寄せられている。
そういう彼の特異性が、今回の神野という役にがっつりハマっていた。
“人がいいだけの教師”が物語が進むにつれ、グニャリと曲がりだす。
知れば知るほど、人物像がわからなくなる。
「アフタースクール」、覚悟していた以上に面白い。
洋ちゃんが前に「全国区に出た時、こんな仕事をしてるのかよと昔からのファンをがっかりさせるような仕事の仕方だけはしたくない」と言っていた。
貫いてる。貫けるだけの技量があったのかと、改めて関心。
この映画の魅力は単に謎に包まれているからだけではないと気づかされるのは後半。
複雑に入り組んだ登場人物たちの行動(観ている側が勝手に複雑にしたただけなのだが)、
その核にあるものは、シンプルで少し切ない“優しさ”なのだ。
特別な信念も、大げさな正義感もない。
気弱な人間たちが、何があっても変わらず持ち続けた唯一の小さな想い。
そこにホロリときてしまう。
笑いあり涙ありという映画はゴマンとあれど、
そこにプラス、あのなんとも言えない爽快な敗北感も味わえる。
きっと観れば観るほどお得な映画。
だので、また行こう。