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everywhere I'll go

私も貝になりたい

紅白の話もあるけれど、とりあえず、大切な三連休を削って観に行ってしまったので、この映画の話。

中居くんが出ているからって若い人はあまり観にいってもしょうがないと思う。
美しい日本の風景、つつましやかな幸せ、理不尽な苦痛、の繰り返しで、老人向けにできている。
うっかり観に来てしまったいまどきの若者カップルは退屈そうだったし、反戦とかの意味がわかんないみたいで、ガンガン前の座席を蹴りまくっていたので、観に行かないほうがいいと思うし、つーか、来るな。

第一印象は、中居くん、結構ちゃんとやれていたなぁ、と。
キムタクみたいに自分のプロモーションビデオにはなっていなかったし、意気込みが感じられた。コウダクミとかいうヘンな女の趣味の悪さというイメージがこれで帳消しになったぞ少なくとも私の中では。

一応反戦というものが軸にはなっているのだろうけど、もう、それは、戦争の虚しさ、惨さは長く生きてきた私は食傷気味なので、そうではなくて、やっぱり、私は夫婦の愛の物語としてみた。

赤紙がきて、兵隊になる腹をくくったシミズが妻に髪を刈ってもらうシーンがある。その時二人の出会いからこれまでの思い出が綴られる。
ここも泣けるが、一番の泣き所は、あらぬ戦犯容疑で捕まり、極刑が決まったにも関わらず、妻に知らせぬまま、1年近くもお互い顔を合わせないでいた頃、妻の元に教誨師から手紙が来る。夫の現状を知った妻は子供を連れ、四国から何日もかけ、巣鴨プリズンに向かう。妻が面会に来たことを知り、恐る恐る7番の面会所に向かうシミズ。妻の声と子供の声が近づいてくる。たたずむシミズ。妻の姿を見つける。妻も夫を見つける。金網を通して、走り寄ることもせず、ただ、お互い、顔を見合わせ、泣き崩れる。そのシーンの中居&仲間はなかなかどころか、素晴らしいと思った。何も言葉を交わさずとも、二人の間には、会いたかったと、愛しているという叫びが聴こえてくるようだった。夫婦愛って未知だから、素直に泣けて、知らないでよかったと思う。

物語の最後は私もなんとなく母からきいて知っていたが、これほどまでに絶望的に終わるものだったっけかと、少し驚いた。
戦犯容疑が晴れて釈放だと勘違いして喜び勇んで彼は牢を移る。
結局、死刑を執行される牢へと入り、そこからは、茫然自失で、もう、ただ息をしているだけ、生ける屍のようになる。
彼は最後に酒を飲み、なんてつまらぬ人生だったのだろうと吐き捨てる。
ここからの場面は現代人にもかなり共感できるのではないかと思う。
ただ、戦争という文字が存在しないだけで、大きな組織や時代に巻き込まれて、納得できないまま人生を送り、そのまま死んでゆくというところは、このシミズの言動が身につまされたりするのだろうと思う。
どうしてこういうことになってしまったのだろうと。なんて運が悪いのだろうと。
死刑台までの階段を上る、上らされる彼の後ろ姿に、現代を生きる自分を重ねることも容易だと思う。
ただ、今の時代、社会や組織のせいにする人の多くは本当は自分のせいなのでね、シミズは本当に戦争のせいでむちゃくちゃになってしまうわけだから、まぁ、それをわかった上で、なんというか、いつの時代も生きるのはキビシーのであーると、それで、泣けるというか泣きたくなる。

という感じでラストまでの時間は、もう、ゼツボーがこれでもかと描かれる。
救いは、絞首刑直前、手に握り締める家族の写真を開こうと、一瞬見せる、あの穏やかな顔だけだが、しかし結局、布を被せられ、それを見ることさえも叶わない。

救いがない。

彼の死刑執行を知らず、いつか必ず帰ってくると信じたままの妻は、二人で営む理髪店で彼の帰りを待っている。しかしその町に、もっと大きな理髪店が出来るというところで物語は終わる。

救いがない。

ラストシーン。彼が最期の時に書き上げた手紙が読まれるが、これも救いがない。
あれほどまでに、人あたりが良く、町の人間にも好かれ、戦争の只中にいても、人としての優しさや理性を失わなかった男が、理不尽な死を前に、人間全てに憎しみを向けている。今度生まれ変わったら、人間なんかになりたくないと言う。どうしても生まれ変わらなくてはいけないのなら、海の底に沈む貝になりたいというのだ。あれほどまでに大切だった家族のことも心配しなくていいからとまで。

なんて救いがない映画なんだ。と、そうか、反戦映画だ、救いなんてあるわけがない、あってはならないのかと思う。

思い出したのだけど、その昔、本気で私は石になりたいと思ったことがあった。
何かを聞いたり見たり、何かに泣いたり笑ったりする必要もない、石ころに。
だからこの映画はやっぱり、アイドルが出ている割には、後味が良くないし、健全な人向きではないから、観に行っても損はないと思う。

が、ここからが、私的本題。

なんで観に行ったか。
おかーさんが観に行きたいと言ったから、と、Mr.Childrenの「花の匂い」を聴くためだ。

酷い。Mr.Childrenの取り扱いに間違いあり。

絶望的な手紙と美しい海と一緒に重厚な久石譲の音楽が奏でられる。
その音楽のままエンドロールに突入。
しばらくして、忘れた頃に、突然、「届けたぁい」と始まる。
ともかく、デカっ!音量でかすぎ!
これは映画館の問題ではない。だって他の音量は普通だったもの。
この、ミスチルの、この、桜井さんの声だけ、アホほど大音量。
まるで映画館のバイトくんがミスチルファンで勝手にかけちゃいましたと思えるほど、とってつけたようなミスチル

しかも、久石先生の後にミスチルが流れるもんだから、尺が足りなくて、この歌の真の聴かせどころのラストのボレロ的アレンジがちょん切られている。

映画の内容に歌があってないことはない。
貝に生まれ変わりたいと自暴自棄のまま死んでいった男への鎮魂歌に聴こえなくもない。

けれど、せっかくここまで、絶望一色で終わらせた作品に、この救いの歌は必要だったのだろうか。脚本家や監督は本当にこの歌でよかったのだろうか。

私はミスチルファンなのでまぁいいけれど、ミスチルファンじゃない人が聴いたら、この映画よかったなぁと思う人ほど、「ミスチル邪魔じゃね?」「つか音でかくね?」「つかいらなくね?」って言われても、反論できない。
泉ピン子が映画のキャンペーンに乗っかってくるくらい邪魔と思われてんじゃないか?

ミスチルの、桜井さんの歌詞は、濃い。
とても濃くて、なにかの味付けとかエッセンスとか副菜にはならない気がする。

出来ればこの映画に使って欲しくなった。
どうしても使うのなら、ラストのエンドロールが始まった瞬間に、「届けたぁい」と始まったほうがまだマシだったと思う。

使って欲しくないといったが、そんなでも、どんなでも、ともかく使って欲しかったのかなぁ。
焦ってるのかなぁミスチル
最近、彼らの行動がなんとなく危機感いっぱいで、歌とは裏腹、余裕がないのねん。